日記

ローマ教皇の「ムハンマドは邪悪」発言に関して。
パパさんいかんがな。
現在生存している人間を対象とした世界中での有名人ランキングしたらトップ10どころか3本の指に入ってもおかしくない人がそんな迂闊な発言をしては。
カトリック中央協議会
で問題の講演は
カトリック中央協議会

えーと、神学博士とかそこあたりを対象にしてるからでしょうか、ちょいと難解ですが問題の部分は

 「啓典の民」と「不信心者」に対する扱いの違いといった、詳細な事柄に立ち入ることなく、皇帝は対話の相手に向かって、驚くべきぶしつけさをもって、宗教と暴力一般の関係に関する中心的な問いを発します。皇帝はいいます。「ムハンマドが新しいこととしてもたらしたものをわたしに示してください。あなたはそこに悪と非人間性しか見いだすことができません。たとえば、ムハンマドが、自分の説いた信仰を剣によって広めよと命じたことです」。

皇帝は、これほど強い調子のことばを述べてから、信仰を暴力によって広めることがなぜ不合理なことであるかを、続けて説明します。暴力は神の本性と魂の本性に反します。皇帝はいいます。「神は血を喜びませんし、理性に従う(シュン・ロゴイ)ことなしに行動することは神の本性に反します。信仰は魂から生まれるものであって、肉体から生まれるものではありません。誰かを信仰に導きたいなら、必要とされるのは、上手に語り、正しく考える能力であって、暴力や脅しではありません。・・・・理性を備えた魂を説得するために、腕力も、いかなる武器も、死をもって人を脅すその他の手段も必要ではありません・・・・」。

 暴力的な改宗に反対するこの議論の中で、決定的なしかたで述べられているのは、このことです。すなわち、理性に従わない行動は、神の本性に反するということです。校訂者のテオドーレ・クーリーは、これについて次のように注解しています。ギリシア哲学によって育てられたビザンティン人である皇帝にとって、この言明は自明なものでした。それに対して、イスラームの教えにとって、神は絶対的に超越的な存在です。神の意志は、わたしたちのカテゴリーにも、理性にも、しばられることはありません。クーリーはそこで、有名なフランスのイスラーム研究者のR・アルナルデスの研究を引用します。アルナルデスは、イブン・ハズムが次のように述べたことを指摘しています。「神は自分自身のことばにさえしばられることがない。何者も、神に対して、真理をわたしたちに啓示するよう義務づけることはない。神が望むなら、人間は偶像崇拝でさえも行わなければならない」。

これは黒でしょ。無論、中世の人間の言葉を引用すること自体は問題ありませんが、論争を呼ぶといいうかムスリムの感情を刺激するような句を引用し、かつそれに関しなんらフォローしないのでは、その句の命題に対し教皇がどう考えているのかがはっきりとは分かりません。「驚くべきぶしつけさをもって」とはありますが、明確に教皇がどう考えてるかは窺えませんですしその命題自体を真と考えていてもその後の文脈とは矛盾しません。
この手の問題発言にはいつも「いや真意は云々」という言葉で弁明されますが、発言というか表現とはどのように表現しようとしたのかと同程度かそれ以上にいかに解釈されるかの方こそ問題なのですよ。